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[雑感]つながる誘惑/感情論

 僕がナショナリズムを嫌いなのは、彼等が自分の存在を国家とか民族とかそういう「より大きなもの」に委ねてしまっている、という点によるところが大きくて、つまり宗教に帰依しちゃってる人を嫌いなのと同じ理由なのだけれど、まあそれは他の思想信条主義主張についても同じことで。「信仰する人」は嫌い。「連帯」は嫌い。
 多分それは自分の中にも非常に大きな「委ねてしまいたい」願望があって、そうすれば楽になれると思いながら日々その誘惑と戦ったり負けそうになったり負けちゃったりはたと気付いて持ち直したりして暮らしてるから、だろうな、と。「所属する快楽」を知っているから。
 でもならば何故、常々「楽して生きていきたい」「めんどくさいのやだ。考えたくない」などと愚痴垂れまくりのオレが敢えて誘惑と戦ってまで(大袈裟ですが)そういう「所属」とか「連帯」を拒否し(ようとし)てるのか、と。楽したいなら別に嫌わなくても長いものに巻かれとけばいいじゃん、とも思うのに。
 御立派な理由はその気になればいくらでも思い付く。ある種の同一性を基軸にした連帯の行き着く先なんてのは僅かでも歴史を学べば想像するのは容易い。「連帯」「一体感」の向こうに見えるのは「奉仕」「自己犠牲」そして果てにあるのは異端審問の陰惨な景色だ、と云い切るのは「所属できずに」育ってきた僕のトラウマから来る極論だろうか。僕はそう思わないのだけれど。
 いずれにせよ此処では感情論を語ろうと思っているのでそういったことにはこれ以上触れない。ただ僕にはもう1つの景色が見えていて、そちらの方が「嫌い」という感情を表す上で重要だと思える。あの悪名高き『新世紀エヴァンゲリオン』の最後、『人類補完計画』の景色。
 人間は個別の個体である限りにおいて本質的に理解し合うことはできない、故に個体の境界を無くしてただ1つの存在になる、というのが『人類補完計画』の理念(だと思う)。其処には自分を脅かす「他者」は存在しない。一体感を求め、異質なものを恐れた果ての「連帯」の極北と、少なくとも僕にはそう見えた。そして、やはりそれは僕にとって受け入れ難いものだったのだ。
 1人は不安。仲間外れは怖い。そんなの知ってる。でもほんとうに「みんなと一緒なら安心」ですか?僕はいつだって他人が怖くて仕方なくて、受け容れられる為の、謂わば誤魔化し方を必死で探して訓練してきたから、居場所が見付かった時の安心感も知ってるけど、その安心感の脆さも同じぐらい知ってる。きっと、脆いからこそ余計に制度、或いは規制としての連帯が必要になるのだろう。
 だから敢えて、1人でいいじゃん、不安なままでいいじゃん、と云いたいのだ。寄り集まったところで所詮救いなど手に入らないのなら。オトモダチ同士の馴れ合いなら嫌いじゃないし、それぞれ勝手にやってればいいだけの話だけれど、思想という名前を付けて寄り集まったり神様だかなんだかの名の下に集団で積極性発揮されちゃったりするのは下らないだけでなく「僕が」迷惑する(またエゴ丸出しで)。そりゃまあ名前付いてないと安心できないってのはあるんだろうけども。でもあなたの欲しい安心ってのは結局その程度のものなの?
 最後にアスカがシンジに「気持ち悪い」と吐き捨てたあの場所から始めること。取り敢えず僕はそう決めてしまったから。もう何かに委ねるのは厭だな、と。

 ちなみに類似の『他者と一体化』というテーマを扱ったものとして華不魅という人の漫画で『鉄錆廃園』という作品があるのですが(でも多分絶版)、其処から引用。

 例え憎みあう相手が消えても 許しあう者も 愛している者も 全て消えてしまうなど 俺は嫌だ

 なんて、そんなポジティヴには、まだなれないんですけどね。


追記 (05/02/2004)
 この文章はかなり個人的にある人へ向けて大急ぎで書いたという意味合いが大きくて、『感情論』と銘打つ通りほんとにただ感情を吐き出すばかりの乱文になってます。実際その人には読んで貰えて、反応も頂けたので、そういう意味ではサイト移転してなおウェブ上に晒し続ける意味はあるのか、とも考えたのですが、改めて読み返してみると、ごちゃごちゃの駄文乱文なりに自分のコアな部分を表しているようにも思えて、敢えて残すことにしました。
 現在は僕も『連帯する』ということに対してある程度肯定的な意義を見出せるようにはなってきてます。集団とか社会とかには必ず権力なり圧力なりが存在して、そういったものに対抗する、或いはその方向性を変えていくにはバラバラの個人レヴェルでの批判は往々にして無力だったりするので。もっと云えばごく一部の例外を除いて人は何らかの集団を作らずにはいられないものだし(無意識にでも)、そこから生まれ得る権力/圧力に自覚的であるためにも、敢えて積極的に他者に干渉していく、という姿勢も必要なのかな、と。
 ただそれでも、「人は本質的にひとりである」という意識はね、忘れずにいようかな、忘れるべきじゃないよな、と。少なくとも僕の出発点は其処にある、ということだけは忘れないように、もう1度、此処に記しておきます。