[架空]山の生活

 無人の駅を出て携帯を取り出すと圏外になっている。畑の中に古ぼけた家が点在する景色を眺め、まあ仕方ないと納得する。
 時刻を見ると待ち合わせの時刻まではまだ少しある。時間を潰す場所も見当たらないので僕は仕方なく文庫本を取り出した。
 ぼんやりと半分文字を追いつつ残り半分で景色を眺める。古ぼけた駅、古ぼけた農家、古ぼけたバス停。山と畑。古ぼけた軽トラックがこちらへ向かってくる。
 「ごめん、待たせたみたいだね」
 年代物のトラックが派手な音を立てて停車して、降りてきたのは果たしてタカハラだった。少し日に灼けたようだが大学に居た頃とさほど変わらない。無頓着な服装も此処の風景には溶け込んでいる。
 「久し振り。ちゃんと生きてるみたいじゃん」
 冗談ではなく、かなり本気で感心した。僕が知っているタカハラはいつもどこかぼんやりしていて、極端な話目を離したらそのまま消えてしまいそうな頼りなさがあったのだが、田舎暮しは意外と性に合っているものらしい。ぼんやりした風情は相変わらずだし表情を余り表に出さないのも昔と同じだが、以前程頼りなげには見えない。とりあえずは促されるまま助手席に乗る。音だけは威勢よくトラックが発車する。
 「ま、ぼちぼちね。生きてくだけならどうにでもなるもんだよ」
 どうよ?と訊ねてみたところのほほんとこんな答が返ってきた。そんなもんかね、と適当に相槌を打つ間にも車は豪快に揺れながら確実に山を登り人里離れた方向へ進んでゆく。
 「ってかむっちゃ山奥なんスけど。先生ほんとにこんなとこ住んでんの?」
 刻々と狭くなる道幅と鬱蒼と繁る木々にややビビリ入りつつ聞いてみる。宵の口というのにもう辺りはすっかり暗く、灯りも見えない。タカハラはのんきに、ああ、僕も最初はびびったけどねえ、などと笑っている。
 「もうすぐ着くよ。ほら」
 と顎で示す先に確かに家らしきものが見えてきた。こいつも相当な年代物らしい。平屋だが近づいてみると結構大きい。1人で暮らすには充分すぎる広さだろう。家の裏手にトラックを停めて、中へ入る。囲炉裏などありそうな雰囲気だがさすがにそれは無く、ガスも電気もちゃんと通っているようでほっとする。しかし流石にエアコンなどという洒落たものは無いらしい。畳の上、無造作に置かれたノートパソコンだけが異彩を放っているようだ。
 「飯食うだろ?とりあえず支度するから適当に座ってて。あ、座蒲団そこにあるから」
 「ちゃんと食えるもん作ってくれんだろーなー」
 手伝おうなどという気持ちはもとより無く僕は辺りを物色する。天井たけーとかおお黒電話にモデム繋がってるよ、などとはしゃいでいると少しは遠慮して手伝わないかね、と台所でぶつぶつ云っている。
 「だってほら、勝手が判らない人間が横にいても邪魔なだけでしょー」
 「はいはい。じゃあ大人しく座っててよ。すぐ出来るからさ。あんまりいろいろ見られてると落ち着かないし」
 怒られたので少し大人しく辺りを見回しているとタカハラが盆に小鉢などを乗せて持ってきた。煮物やお浸しなどなかなか立派に作ってある。野菜は山の下の農家から買うのだと云う。以前はタカハラも僕と同等のジャンクフード生活者だったというのに人間変わるものだ。
 「これいいじゃん。これも自分で作ったの?」
 出された小皿を手に取って訊ねるとタカハラは照れたように笑った。純朴そうなというか、いかにも都会でドロップアウトしそうなナイーヴさを感じさせる。そんな見方をする自分もしかし似たようなものか。
 「もう1年ぐらいだっけ?」
 「そろそろ1年半になるかな。さすがに大分慣れてきた」
 大学卒業後1度は普通に就職したタカハラは、何を思ったか1年足らずで職場を辞めて山奥に移り住み郷土史料館で働きつつ陶芸などをやっている。僕とは違って出来がよく1流商社に入社した息子の突然の決心に家族は大騒ぎだったらしい。僕も詳しい経緯を知っている訳ではないが、今の彼を見る限りでは正しい選択だったような気もする。
 「しっかしまあよくこんなとこに住む気になったねえ。ファミレスもコンビニさえ無いってのに」
 「んー、なんかね、惹かれたっていうかさ、大学の頃何度か来たんだけど忘れられなくて。でも家賃も物価も安いし慣れれば東京より楽だよ。ネットが繋がるから情報は入ってくるし」
 そんなもんかねえ、と皿をつつきながら答える僕に、そっちはどう?とタカハラが返してきた。
 「ま、ぼちぼちかね。暇だけど。暇じゃなければこんなとこに遊びに来たりできないだろ」
 そりゃそうだ、と笑う。実際は笑いごとでもないんだが。実際こんなに簡単に有休が取れるのも不景気で仕事が少ないからで、決してこちらも悠々自適とは云い難い。
 「でもほんと、来てくれて嬉しいよ。君には会っておきたかったし」
 「なんだよそれ。失踪でもするみたいな」
 不穏な言葉が少し気になって聞き返したがタカハラは笑って言葉を濁すだけでそのことに触れようとはしなかった。僕もこういう時の彼が多くを語りたがらないことを知っていたのでそれ以上突っ込んで訊ねはしなかった。

 その夜、慣れない環境で眠りが浅かったのか、何かの気配がしたようでふと目が覚めた。隣ではタカハラが気楽に寝息を立てている。月の光が射して障子が仄白い。その白い障子に人影が映ったような気がした。女のように見えたその影は一瞬で消えて葉擦れと何処からか聴こえる湧き水の音だけが残る。寝ぼけたのだろうか。睡魔に引きずり戻されて、また眠りに落ちた。
 次に目覚めると既に外は明るい。タカハラが台所に立っている。
 「おはよう。すぐ飯が出来るからさ」
 「んー‥‥‥タカハラいい奥さんになれるねー」
 もぞもぞと寝床を這い出して卓袱台に向かう。土間の処に見なれぬ物体を発見してのろのろと其処へ行き手に取ってみる。丸っこい小石に松の葉を結び付けてある。こんなもの昨日からあっただろうか。
 「何これ。オブジェ?」
 「ん?ああ、まあ、そんなようなものかな。起きたなら運ぶの手伝ってくんない?」
 まずは食事だ。妙なオブジェもタカハラの趣味かも知れない。僕の興味は其処で途切れた。
 「この近くってさあ、誰か他に住んでるの?」
 昨夜のことが気になって訊ねてみる。
 「いや、この辺りは僕だけで、他に人は住んでないと思うよ。昔は多少いたらしいけどね。今は山だけ」
 「ふうん。なんか夜中に人の気配がしたような気がしたんだけど、寝ぼけてたのか」
 タカハラは一瞬怪訝な顔をしたが、
 「まあ人以外のものはいっぱいいるみたいだけどねえ。たぶらかされたのかな?」
 と笑う。
 「いっぱいいそうだよなー。なんせ山奥だから」
 「山奥って云うな!」
 2人で少し笑ってそれでこの話もお開きになった。午後からは里に下りてタカハラの働く史料館などを案内してくれるとのこと。昔ながらの窯があって実際にタカハラはそれを使って焼き物を習ったりしているそうだ。趣味と仕事を両立させてるって訳、と云う彼は本当に此処の生活が気に入っているようだった。
 また矢鱈に揺れる骨董もののトラックで下りてきた「里」はそれでも充分に山奥の雰囲気を残していて、真ん中に通っているのは一応バス通りということだがろくに鋪装もされていない。その里の更に外れに割合大きな藁葺き屋根の家があり、其処が彼の働く郷土史料館ということだった。
 「タカハラ君のお友達かね。遠い処をよう来なすった」
 出迎えてくれた老人はこの家の所有者で今は館長兼陶芸の先生をしているという。珍しい来訪者に喜んでいるのか、最近はこの村も若い者が出ていってしまって、とかこれでタカハラ君が早く身を固めて里に落ち着いてくれれば、などと人懐っこくよく喋った。
 「里にも空いてる家はあるんだからねえ、山の姫様に魅入られでもしないうちに下りてきて近くに住んでくれればいいと思うですけど、彼は山が気に入ってるらしいでねえ」
 「もう勘弁して下さいよー。いいじゃないですか、特に不便がある訳でなし」
 タカハラが苦笑混じりに割って入る。しかし僕は館長がふと口にした一言が気になった。
 「山の姫様って何ですか?」
 「ああ、彼処の山の主様は女の神様でな。時々山に入った若い男をさらっていくちゅう言い伝えがあるですよ。折角都会から此処に来てくれた若い者をかどわかされちゃあたまらんちゅうことですわ」
 「伝説だよ、只の。神隠しってやつ。あの山は意外に深いからね、昔は遭難する人もいたんでしょ。あ、こっち窯ね。僕使ってるやつ」
 タカハラがさり気なく話題を逸らす。素人目ながら彼の作品はなかなか味があって、観光客(といってもそうはいないが)に土産として売ったり、地元の人たちに分けたりしているそうだ。

 まったくこの時僕は何も気付いていなかったのだ。彼の言葉にも家にあったオブジェにもまるで無頓着だった。気付いていたからといって何かが変わったとも思えないけれど、今思い出すと後悔を感じる時がある。

 帰りにまた駅迄送って貰った。電車が来るのに暫くあるので改札のそばで2人手持ち無沙汰気味に佇む。灰皿を見付けて煙草を取り出しつつそちらに歩く。
 「最初はさ、すげえとこだと思ったけど、タカハラなんか馴染んでるよな。わかんないけどこっち来て正解だったんじゃん?」
 「ん、そう?ありがと。なんかさ、僕も此処が地元みたいな感じになってきて。云い方悪いかも知れないけど実家より落ち着くんだよね、こっちの方が。例えば前世ではあの山に住んでたのかも、って」
 「あはは。ほんと彼処が気に入ってんだ」
 「うん」
 あまりに彼が素直に頷くのでちょっと拍子抜けするくらいだった。電車の到着を告げるアナウンスが聞こえる。じゃあまた、と手を振って改札を抜ける。のんびり停車している鈍行列車の中で振り返るとタカハラが車の中から手を振っていた。

 「また」は結局2度と来なかった。
 その後数回メールのやりとりをしたものの後は音信不通になっており、タカハラが失踪したと聞いたのはそれから半年後のことだった。
 素直に驚くには思い当たることがあり過ぎて、しかしどうも納得することもできず、狐につままれたように中途半端な気持ちを持て余していたが、驚くことになったのはそれから更に3ヶ月程した頃のことだった。
 タカハラがいなくなったという事実をやっと感覚的に受け入れる、というか慣れてきた頃、普段のようにメールチェックをすると匿名のメールが来ていた。
 妙な添付ファイルも付いていない様子なので警戒しつつ開いてみると、それはタカハラからだった。

 お久し振り。お元気ですか。
 いろいろ迷惑をかけたと思います。ごめん。
 現在の状況を説明するのはとても難しいし、
 説明しても多分理解してはもらえないと思う。
 山の姫様にたぶらかされた、ってのが一番簡単な説明かな。
 いきなり姿を消して本当にすまないと思っています。
 もう会うことは無いと思うけど、君達のことは忘れずにいます。
 もしついでがあったらまたあの山の家を訪れて欲しい。
 僕はいつでもあそこにいます。

 驚くというよりはますます狐につままれたような気持ちでもう1度メールを読み返す。質の悪い悪戯だろうか。最近は山の神様ってやつも電子化されてんのか?などとひとりごちる。警察か家族に届けるべきかとも考えたが、結局誰にも云わずにおいた。

 散々迷ったがどうしても気になって次の休暇でまたあの山里を訪れた。1時間1本のバスで郷土館を訪ね車を借りる。館長は、あのタカハラ君がねえ、真面目な子だったのに、と今でも嘆いていた。しかし彼のことを悪く云う人がいないことに僕はなんだか少しほっとした。
 道はうろ覚えだったが迷うことも無く家に辿り着けた。一部の家具は取り払われ多少埃が積もっているものの雰囲気はタカハラが住んでいた頃とあまり変わらない。畳の上に茶碗と小鉢が乗っている。思わず近付いて手に取る。何故かこれらは埃を被っていない。タカハラが作ったものだ、と理由も無く確信した。彼は此処にいる。庭に飛び出す。
 「タカハラ!」
 当然答はなく葉擦れと何処からか聴こえる湧き水の音だけ。彼はもう此処にはいない。
 「タカハラ、これ貰ってくぞ」
 茶碗と小鉢を割れないようにそっと鞄に入れて車に乗り込む。細い山道を下りながらもう振り返らなかった。

 あの日タカハラの家で見たオブジェは石文と呼ばれるもので、小石と松は「恋しく待つ」という意味だと後になって知った。彼は今でもあの山にいるのだろうか。とりあえず僕はまだ此処にいるしかない。明日は仕事だ。煙草を吸い終わったらシャワーを浴びよう。

 でも、今もメールをチェックする時匿名のメールを探してしまう。